京ぽんの「ぽん」て何やねん

gnt2006-03-07

とある友人から

京ぽんの『ぽん』って何やねん!」

って質問があったんだけど、ちょうど手元にあった欲田郡彌の 『日本ケータイごでん誤伝』(TDCP叢書発行委員会)で解説してたので引用しとく。テキトーに打ち起こしたので誤字、脱字はご勘弁。

↑写真は欲田氏近影。

 結論から言えば、京ぽんの「ぽん」は、京都は先斗(ぽんと)町の「ぽん」と同義である。


 まず起源から述べていこう。サンスクリット語において「五」を意味する音は「パンチャ」である。さて、古代インドにおいて、争う二者の言い分を最終的に裁判するのは、己の肉体のみを武器にして対戦者の死を神に捧げる「神前決闘」であった。そして、その神前決闘は5対5の勝ち抜き戦で行われた。当然の成り行きとして、サンスクリットにおける「五」は「斗い(たたかい)」の暗喩を持つのである。余談だが、渡欧時に対戦したインド武術カラリパヤットの達人からこの故事を聞き、柔道団体戦を考案したのが前田栄世、後の前田光世であり、ブラジルにて「コンデ・コマ」の異名を受ける12年ほど前であったという(明萌館書房『講道館創設秘史』より)。



 しかし「パンチャ」が如何に「京ぽん」となったかを説明するには、一端西方に目を移さなくてはならない。ユーラシア大陸の西端、ポルトガルである。17世紀、遠き兄弟であるインド=ヨーロッパの間で交流が再開された。皮肉にもそれは弟による、兄からの収奪という形を取ったのは周知の通りである。そして労働力、麺、紅茶と同様に、インドの文化もまたヨーロッパに奪いさられた。その貨物のひとつに「パンチャ」が含まれたことも、想像に難くない。


 もともと血の気の多い土地柄である。決闘の新しいバリエーションとして、「パンチャ」はヨーロッパにおいて熱狂的に受け入れられた。その名残がボクシングであることは、洋の東西を問わずあらゆる格闘技研究家が等しく認めるところである。その証左はあらゆる西洋格闘技のルール面に見られるのだが、ここでは英語で拳での殴打を意味する「punch」は、そもそもパンチャから来ていることを指摘するにとどめる。



 さて、イングランドでは上記のように技法名として受け入れられたパンチャだが、ポルトガルではどうだったのか。ポルトガルではこれを戦う姿勢、意志として受容した。その語が「pont」である。この語の持つニュアンスに正しく該当する日本語を私は寡聞にして知らないのだが「命を張って勝負に出る」「ここ一番に大きく張る」といったところか(三星堂『中世日葡辞典第801版』)。そう、決闘が野蛮として退けられた後も、「ポント」は博打用語として生きながらえたのである。



――ここまで読み進んだ賢明な読者諸氏は、なにゆえ先斗町の読みが「ぽんと」なのか、そしてなにゆえ我らの先人は「ポント」に「先斗」の字を当てたのか、すでに見当が付いていることだろう。蛇足ながら、以下、駆け足で説明を続けさせていただこう。



 フランシスコ・ザビエル種子島に上陸し、日本を「発見」して以来450年強。その初期の活発な貿易と、その後に続く200年の鎖国により、カステラ、トタン、バッテラは言うにおよばず、おんぶ、屏風にいたるまで、ポルトガル語の日本語化は活発に行われた。そのひとつが「ポント」である。


 現在の先斗町一帯は安土桃山、江戸、明治を通じて朝廷公認の賭場が営まれ、各国の侠客が集う鉄火場として知られている(照文社『マル秘! 濡れ場鉄火場何でもござれ!! 京都夜遊びアブナいスポットお教えしまっせぶぶ漬けどうどすガイドブック』)。現代も公認賭場があるや否やについては、ここでは触れないでおこう。筆者も命が惜しいのである。本題に戻ると、その賭場と侠客たちの存在により、京都東部、鴨川と高瀬川に挟まれた200m四方の一帯が「ぽんと町」と呼ばれるようになるには、さほど時間はかからなかったようである。少なくとも大阪城落城前後の史料に「ぽむとちゃふ」の文字を認めることができる。



 さて、時代は桃山から幕末まで下る。幕末、周知の通り京都は幕府派・朝廷派間における抗争の主戦場であった。その尖兵としては、全国の浪人を集めた新撰組が畏れられていたが、それに匹敵する無頼の戦闘集団が、件の先斗町に屯する侠客たちで構成された「ぽんと自警団」である。現代においてその名はアルファシステム俺の屍を越えてゆけ』の中に認めることができる。その苛烈な生き様は、まるで自分の命を掛け金に博打を打っているかのごときであった。


 いかなる因果があったものか、ここに来て「ぽんと」はその語源である「パンチャ」の意味に再接近することとなる。即ち、幕末の京都において「ぽんと」とは「己が命を賭して時代の先端を駆け抜ける様」を意味することとなった。一言で言い表すならば「先魁(さきがけ)」である。以来、ぽんと町の表記は「先魁町」と定まったようであり、明治の大合併における公式文書にはその旨が記されている。


 その後、難字の簡便化により「ぽんと町」は「先斗町」と表記されることになったが、これは戦後の話である。あるいは「先陣を切って斗(たたか)う」との意味から、もともとこの字を当てていた、と主張する学派が六教大学地域史学研究科を中心に存在することも、読者諸氏の解釈の一助として付記しておこう。



 このような由来により、賭博に近しい京都花柳界などでは以前から「ぽんな御人」という隠語が使われていた。現在、人口に膾炙した「ぽん」は「リスクを冒して時代の一歩先を行く」といったようなニュアンスである。


 そして京都セラミックの日本初フルブラウザ搭載PHSという冒険的な製品に、「ぽん」という畏怖と期待がこもった尊称がつけられたのは、歴史の必然と言えるだろう。この尊称を考案した個人は未だ特定されていないが、彼/彼女が生粋の京都人であることは間違いない。それを疑う人は、あなたの近くいる京都人に「お前はホンマにぽんなヤツやなぁ」と言ってみるとよい。彼/彼女は誇りと自負でその顔を輝かせることうけあいである。