偽史としての音楽体験
いわゆる個性化時代です−日日ノ日キ
聞くことの忸怩−オオツカダッシュ
これから音楽に出会う若い人たちへ〜ダッシュ君、そしてダッシュ君と同じ気持ちの人に向けて〜−日日ノ日キ
「渋さ知らズ」で踊り狂う小学2年生は果たしてサブカルなのだろうか・・・−想像力はベッドルームと路上から
あたりからの例の論争に対する妄想。
音楽にも歴史が重要らしい。と、いうか博物学と言った方が良いのか。無限に分割可能な歴史。どっかの紙媒体が書き上げた歴史。トニオさんがそんな大文字の「歴史」を信じている(フリをしている)のは意外だった。持続する時間派かと思ってた。
えーと。俺には音楽評に関して基準としている言葉がいくつかあって。それは
「音楽とは交通事故のようなものだ」
「こちとらノーモアヒーローズよクソったれ」
とかで、それは『LAZREZ』isbn:4757702361漫画のセリフなんだけど(コレ自体がヒーロー化、と言われるかも)、そーゆーこと。
どーゆーこと?
つまり昨日のエントリともちょっとだけ関連して標題のとおりなんだけど、個人の音楽体験なんか偽史として構成してしまえばいいんじゃん。とか。むしろ歴史=物語としての視点なんか放棄しちゃえばいいんじゃん。とか。共時的な参与観察のみを頼りとするとか。個別の事例変化から(勝手に)過去を幻想する、とか。
たとえば、昨日帰宅後に何となく付けたら69tribeっていうTV番組がやってて。そしたらなんかThe Phanky Orchestraだかを「ネオ渋谷系」とか言ってて。そんでなんだっけ、あの、木更津のウッチーの人が「今ネオ渋谷系がHIFANAとか○○○とか*1キてるじゃん。そこにTPOも云々」とか言ってて「ええぇぇ〜ネオ渋谷系ってcapsuleとかのこと言うんじゃないのHIFANAはないだろうせめてラムライダー」って脊髄反射したんだけど、よく考えるとその字義通りの解釈は面白い、というかむしろ誠実なのかも。つまり地域で全部一緒くたにしてしまって、あとはそこに参与観察して、ポリフォニックを目指して民族誌を描く、みたいな。そーゆー。
ってまぁ、トニオさんも吉田アミさんも同じことを言ってる*2んだけど。構図をまとめると
それは修正主義だよと愛にあふれたたしなめをする吉田アミさん
↓
それは帝国主義的ノスタルジアだよと批判するトニオさん
↓
そこにノスタルジーを見つけるウハウハさん
↓
ピクシーズ中学生
ってけっきょく昔ながらの優越感ゲームかよ!
って、いいんじゃない。優越感ゲーム。
少なくともそこに政治性、社会性が混入してない限りは。スポーツとか対戦ゲーっぽいですよね。時間と金をムダに費やして成長を競って。明確な勝負がつかない点はフィギアとかハーフパイプに近いか*3
あと、偽史捏造傾向について。たとえば昨日のエントリなんかは、誰にもウケない、ってのが分かってても書きたくてしょうがない瞬間、っていうのがときどきある。完成形としては隆慶一郎と『魁!男塾』、当面の目標はブシドーMMO/柳生なんですが。これって新城カズマが「架空言語設計って一種の病気なんじゃないのか」と言ってた*4のと通じる、と思う。この2つは国家により強引に策定された、っていうところに共通点があって……みたいな(逃げた!)。
っつってトニオさんとこの昨日〜今日のコメント欄みたら、ばるぼらさんと神学論争になってた。なんかね、脊髄で「きっとトニオさんの自作自演だ!」と反射してしまいたくなるほど話がかみ合ってて、嗚呼クネクネ微笑ましいなぁ、と。
この議論の中でいちばん共感したのはid:inumashさんの
っての。
少なくとも僕にとって「音楽の記名性」なんてひたすらどうでもいいことです。例えばベーシック・チャンネルのドローン音とウラディスラフ・ディレイのそれがどう違うかなんて差異化はどうでも良くて、あるいはそれらを聞くことの意味もどうでもよくて、ただその時、その音が必要だったというだけだったりします
で、はてなで質問しようと思ったんだけど忘れてた問いを関連で思い出したのでメモっとく。*5
“何故、音楽にはポルノコンテンツが無いのですか? もしご存知なら「こーゆーのが有るよこの無知!」と罵っていただいてもかまいません。なお「ポルノ」とは、それで射精することを第1義の目的とするものです。できれば、何らかの出典を元にお答えいただけると幸いです。もちろん実感・感想でもかまいません”
素人考えとしては、原因は受容の形式にあるのかなぁ、と。でもベッドルームミュージックが普及してからずいぶんたつのに、ポルノミュージックは隆盛を誇ってはいないしなぁ。
つうか、今日はけっきょくなんの話?
まぁ、門外漢の脳内床屋談義、ということでひとつ。